(月)

1.17について
 その前夜、神戸市西区にすむ弟夫婦らは、九州の田舎から仕事で神戸製鋼に船をとりにきた親父と食事をしたらしい。そして神戸港に停泊させていた新しい船を、孫に見せて、すっかり上機嫌でその夜は、別れたらしい。
 弟夫婦らは、子供をのせて車で、倒壊した阪神の高速を渡り、西区の自宅へ。親父は、神戸港に停泊させている船の番のため船舶。
 その日の翌朝に大きな地震がきた。親父は船から降りれず状態。弟夫婦らとは連絡からとれず、宝塚にいる、義理の妹の兄家族らとも連絡普通。私は福岡で仕事。母は、佐賀で仕事していた。
 地震があったとはきいたがあまりの大きさに呆然としたのを覚えている。とにかく四方八方手を尽くして、ようやく連絡がとれたのが2日後だった。それも、いろいろな人たち経由で。
 親父は、船舶無線があるので一番連絡がとれやすい。会社経由で連絡はとれ無事であったことはすぐにわかった。
私は仕事も手が付かず、仕事先のテレビをしばらく見て、すぐに帰ったのを覚えている。
 幸い、神戸市内また周辺にいる知人らはみんな無事だった。義理の妹は、妊娠中でみんなはそれが一番心配だった。3歳ぐらいだった甥っ子は、やはり今でもゆれるとかなり怖いらしい。
 いつ何がどんなときにおこるかわらない世の中で、まさか自分が死んでしまうとはおもわなかったであろう人たち。自分だけがどうして生きているのだろうといまだに心がゆれている人たち。生死を分けたものがなにであれ、傷は深いし、教訓もたくさんあるとおもう。
 10年後に再びきた新潟中越地震。ここ東京ものんきにしてはいられない。左右との付き合いがあまりない、この東京では、なにがうまれ何がなくなるのだろうかとときおり考えます。
 亡くなられた方々の分までしっかり生きる気持ちを一人一人もってもらいたいと願います。

合掌