第2回連続講座 参加

六本木の東洋英和女学院大学大学院で開催された、同学死生学研究所主催の講座です。毎年あるのですが、昨年はまったく出席できず・・でしたので今回から出席しました。

東京大学名誉教授の大井玄教授の「終末期医療からみた存在と時間」という内容での講義でした。今年から一回の受講は500円となりました。(昨年度まで無料)大学院の学生(社会人含む)の方々と一般の方々の出席でした。

生物学的、物理学的な側面からみた、終末期患者の"時間の感覚"を題材として挙げられていました。はっと気がつかされる面がありました。家族が終末期を迎えた場合、わたしたち家族の時間と患者側の時間は同一性はないこと、同じ時間の過ごし方でも人により質と量が異なること。時間を費やすにはエネルギーが必要である。そのエネルギーの"濃さ"に注目すること・・そのような内容でした。エネルギーの濃さ・・・とても身にしみました。この濃さというのはなかなか難しい。私たち家族が患者にかけるエネルギー、患者側の自分自身にかけるエネルギーと家族にかけるエネルギーの違いを一瞬考えていました。どう考えてみても、患者側の負担するエネルギーの量がおおいのではないか、それは濃さというより負担になってるのではないかと。そういった観点を教えていただいたような気がしました。

存在する・・という点では、ハイデガーの話もでてきましたが、時間と存在は同じである。存在するということは、そこにとどまり時間の経過とともに生きるという意味のように感じます。"わたし"とともに"あなた"が居て、"わたし"とともに"お医者様、看護師さんら"が居る。それは、山がある、海がある、月があり太陽がある。猫がいて、居ぬがいて、部屋にはテレビがある。物質が"在る"こと、目に見えない感性なども"在る"こと、それは常に時間という時限的な世界の中に存在し、常に伴っているということ。
 そこから見えたのは、人は死ぬ・・その・・瞬間まで、生きているということ。生きている限り時間は常に伴い、死んだあとには、その人の時間は止まってしまうということだ。ならば、死ぬその瞬間まで、家族は大きなエネルギーをかけることは必要であると思うし、そのエネルギーの濃さは大きくなるであろうと思う。
しかしだ、どんなにエネルギーの量を多くかけ、質をよくし、濃い時間を費やしたとしても、人間は常に「ああすればよかったなあ、こうしていたら今頃・・」と後悔の念が強くでると思う。家族が精いっぱい終末期の患者に向き合っても、本当に最終的に「満足」するということがあるのだろうか。どこかで私たちは、自身を納得させることで消費していたエネルギーの終焉を期待しているのではないかと。「あれでよかった。間違っていなかった。」と。そこから、満足して向き合えた、満足して介護したとたどりつくのではないかと。

終末期を迎えた患者が自分の家族であった場合(私の場合はこの立場)、患者が亡くなった後にこうした葛藤にさいなまれることは多いと感じます。ですが、今日大井玄教授の話をきいてみて、費やす時間にかけるエネルギーの問題に気がつかせてもらったことは、大変貴重であり、かつこの問題を認識していることで、患者家族へのグリーフケアにおいても十分にその前後に適応することが可能ではないかと思いました。

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という感想です。(^^
来月からも研究会、連続講座、秋にはシンポジウムがあります。すべて参加予定としてスケジュールに入れ込んでいます。
今日は大変貴重な時間だった〜