失業50日目・・臓器移植法

改正移植臓器法が施行されて、なんだか人の臓器がやすやすと明け渡されているような気持ちになるのは私だけなのだろうか。
 生前、故人がちょっとした話題の中に、自分が死んだ時には臓器提供をしてもいいなあ・・程度の会話があったとしても、それが本当に死ぬ寸前までの故人の意志であったかなんてどうやってわかるのだろうか。
 臓器提供意志カードももっと重さを持った方がいいのではないかとおもう。10年前の気持ちと、家族ができ一家の主や親になった時の気持ちには揺れがあるのではないかとおもう。数年おきに意志カードの書き換えなどはどこかが管理して実施するときはできないものであろうかと。
 先ほどニュースで、意志カードがないにもかかわらず脳死と判定され、家族が臓器提供に応じたということだが、家族にとって親兄弟、子供の臓器提供に関してそんな権利があるのだろうか。
 一般人にはまったくわからないところで、改正法が施行されても、肝心な細かな内容については、ダレもしらないではないか。メディアというのは、こういう部分に的を絞って情報発信するのが義務じゃないのかとさえ思う。
 臓器提供意志カードがない場合、あるいは、家族との会話でそういった話がない場合などは、臓器提供はできないという強制力はないのか。なんだかわからないことばかりなんですが・・。
 故人の臓器で誰かが助かるのであればという考え方は、功利主義的な考え方に偏っているように私はおもってしまう。極論からすれば、それで誰かが助かることは善なのか。提供しないことは悪なのかと。
 わたしなら、故人の遺志がないのであれば、絶対臓器提供にgoサインは出さない。病死にしろ、事故死にしろ、死んでからも体を傷つけることに抵抗がある儒教的な考え方が少しあるからだろうか。
 人間というのはそんなにいい人ばかりだろうか。この臓器移植改正にともない、今後悪用されるかもしれないというリスクに関しては、なんの情報もないではないか。家族の話による故人の臓器提供遺志は、家族の話が正としての考え方だが、もしここで嘘をついている場合を見抜く方法はあるのか。あまりにも安易で紳士的に物事を進めているようで腑に落ちない。
 臓器移植前には脳死があるが、脳死問題でさえ曖昧で一人一人が生活の中でほとんど人は考えたことがないとおもう。もし自分が脳死状態になったときの判断は家族に依存するのが普通なのか? もっと死に関してまっすぐに見つめ直す時代にきているのではないかと思う。
 私も家族とちゃんと話してみんなの意志をきいておこうとおもう。